日中インドア戦「第一次上海事変でGO!」の巻
2008/5/18



関連頁「人参画報」はこちら

2008年5月18日 千葉県酒々井インドアフィールドユニオン『リトル上海』
参戦人数 15名
筆・紅中兵

※ここではイベント特有の特別ルールの説明については割愛しています。詳細を知りたい方は専用HP内レギュレーションの頁を参照の事。


あれから何ヶ月経つのだろう。いつもの様に我が愛銃モーゼルのクリーニングをしていると、ふとあの日の事が走馬灯の様に思い出された。
四方八方に飛び交う銃弾、百短の圧倒的な火力に次々倒れる抗日義勇市民、抜刀斬り込みしてくる日本兵との壮絶な白兵戦、点々と横たわる敵味方の負傷者達・・・
あの『リトル上海』での戦いの時が・・・
 

序章:日はまた昇る
思い起こせばあれは、昨年末の中華街大忘年会の時だった。
「数年来途絶えていた忘年会も復活し、既に定例行事となった。次には人参解放軍主催の独自イベントをやりたいな」
「そういえばかつてはインドア戦の主催をされていたそうですね」
「そう、各地のインドアフィールドを貸し切って何度も主催したものだ」
「またやりましょうよ同志主席。我々はまだインドア戦の経験がありません!」
「せっかくだから、人参軍らしいインドア戦ってどうですか」
「じゃあ日中戦でもやるか。壮絶な市街戦が展開された戦場というと・・・上海?!」
という様な経緯にて、インドアフィールドで2次戦っぽい火器中心のゲームを行おうという事が決定されたのであった。

その後、詳細なルール案を作成し、中核となるメンバーで集まって何度か推敲の後に正式なルールが決定された。勿論これらルール設定の際には、我々人参軍が過去経験した豊富なインドア戦の経験が生かされた事はいうまでもない。
ただバラバラと撃ちまくる野外のゲームと変わらないものではなく、「インドアゲーム」を心底楽しめるルールとするにはどうしたら良いか。しかも加えてヒストリカルっぽさも加味しよう。とはいえ、参加者が負担に感じる様な過剰な軍装縛りは絶対反対だ。
かくしてコンセプトは決まり、我が人参解放軍にとっては記念すべき5月に主催大イベント復活を以って本年の建軍記念式典とすべく、詳細が煮詰まった頃には既に3月となっていた。
 

第一章:先んずれば敵を制し遅れれば・・・
さて、話は飛んでイベント当日。フィールドは13:45から使用可能だったので私を含むイベント運営メンバーは13:00にフィールド入りした。まず自分達の準備を終えて参加者達の到着を待つか、と思っていたのだが、早い参加者はもうぼちぼちと到着し始め、私は着替えも終わらないうちからあちこち飛び回って対応に追われていた。

気がつけばもう13:30、ふと見ると日本軍サイドでは海軍陸戦隊は既に準備万端なものの、陸軍が誰も来てない。「さすが海軍さんはしっかりしとるねー」等と他の参加者から言われていたが、さて・・・
実は陸軍部隊は連絡の行き違いにより、来る当ての無い送迎を全員が駅で待っていたのであった。

急ぎ輸送部隊を派遣し、帝国陸軍悌団がフィールド入りした時は既にフィールドは使用可能な時間となっていた。
とにかく大急ぎで戦闘準備を整え(私もまだ完全に終わってなかった)、全員集結を号令し念のため負傷や復活などのルール説明を行う。あらかじめ手引書を配布し、更にここで実演をして見せたので、「HG戦」の経験者は4名しかいなかったがその後混乱もなくゲーム遂行が出来たのは幸いであった。
その後も試射やらスローガン貼り(フィールド内に抗日スローガン・対支宣伝スローガン等を設営)やら何やらしていたので、ゲーム開始はそこから更に30分を要してしまったが、日支激突の時は刻一刻と近づいていたのである。
 

第二章:運命のバカヤロー
さて、総員がフィールド入りし、各々の開始地点へと向かう。
この時の部隊編成は、以下の通りであった。

日本側:陸軍及び海軍陸戦隊の混成部隊
     米軍義勇隊
中国側:国民党軍正規部隊
     抗日民間人義勇隊

日本軍及び国府正規軍は整列行進をしてフィールド中央へ進んで行く。
やがて両軍の隊列はフィールドど真ん中で正面からぶつかり合う形となった。
双方とも国家の威信をかけているので道を譲る訳にはいかない。
双方にらみ合いながら足踏みを続けるうち、業を煮やした日本兵が叫んだ。

「バカヤロー!」

これが合図であったかの様に、さっと展開して戦闘態勢に入る両軍。
いつの間にか発砲が始まり、これがその後長きに渡る日中激突の発端となった。

戦端が開かれたと見てとるや、周辺で様子を伺っていた抗日意識の高い民間人達も直ちに秘匿していた武器を手に戦列に参加、また居留地が近かった米軍も正規兵に指揮された義勇隊が居留地保護の名目で国府軍に対し戦闘を開始、かくして「リトル上海」は全面的戦闘状態に突入したのであった。
 

第三章:LET’S リサイクル(命の)
遮蔽物に富むのがインドア戦の特徴だ。しかしながら、つい先ほどまでにらみ合いをしていたところからの展開では両軍共に距離も近く、激しい銃撃がたちまちそこかしこで展開される事となった。
とはいえ、基本は操棹式(ボルトアクション)がメインなので雨あられと撃ちまくる訳ではない。
が、1部隊に1名まで分隊支援火器が認められており、我が正面にはその百式短機関銃が猛威を振るっていた。
我が部隊は4名より編成されていたのだが、ちょっとでも動くとバラバラと叩き込まれるので各々が散開したまま連携がとれず分断されたままだ。

このままでは誰も動けない。私は何とか奴を退治しようと隙を伺いながら前進を試みたが、たちまち1連射で負傷してしまった。

「被弾した。救援求むー!」

だが、この状況下では誰も動けない。ここで待っていてもしょうがないので、私は戦死1号として場外に設置した戦死者の待機所に向かう事とした。おそらく皆も程なくしてやられて到着する事だろう。

・・・しばらく待ってみた。誰も来ない。
さて敵は?と思い敵側の待機所に遊びに行ってみた。米軍が既に1人。
「いやーやられちゃいましたねー」「どーもどーも」
なんて会話をして、また戻ってみたが誰もいない。「?」 激しい銃撃からすると数名の被害は間違いなく出ていてもおかしくないのだが。
建物内が垣間見れるところまで行って(注:ルール上、中には入れない)、フィールドの様子を伺ってみる。なんとそこここに負傷して皆横たわっているじゃないか。
1人が私に気付いて、戦死モードに入るべく出て来た。
これで気が付いて、他の戦友もぼちぼち待機所に。かくして全員揃ったので、我々は新部隊として復活しフィールドに戻る事が出来る状態となった。

「あてが無いのに負傷者として待っていたら、いつまで経っても戦闘に参加出来ないよ。呼んでも助けに来てもらえなかったらとっとと死んで部隊復活をする方が賢い。」
「なるほど、これがこのルールのキモ、ですね。」

かくして我々は、開始早々に特別ルールの核心を知る事となった。といっても既に30分程が経過しており、長時間戦の実態をも感じ始めていた。
さて、部隊復活してフィールド入りしようか、と待機所から建物入り口へ向かう途中、バラバラと抗日義勇隊が出て来た。1人、2人、3人・・・あれ、我が方全滅じゃん!

「終了ー!」

・・・という訳で、初戦は中国サイド完敗で終了した。
 

第四章:後はat ランダム
という訳で、軽く休憩入れて第二戦開始。以降は双方スタート地点と定めたフィールド両端より機動するという、まあ通常のゲームっぽいやり方で開始である。

ちなみに、負傷時に復活させてもらえるのは自分が所属する隊のメンバーだけ。友軍でも他部隊の戦友は「戦友が来るまで頑張れ。傷は浅いぞ」と声をかける事しか出来ない。
したがって個別にバラバラと展開するのではなく、お互いに目の届く範囲に固まって部隊単位行動を取る事に自然となる。これがまた普段のゲームでは無い、本ゲームならではの特徴である。

「ヒットー!被弾した!」数メートル先で声がする。すかさず後方から戦友が駆け寄り、「しっかりせよ」とタッチしてくれる。復活して共に移動の途中、今度はその戦友が被弾、その場に崩れ落ちる。「さっきの礼だ」とタッチして彼を復活させ、共に敵火線より離脱・・・
そんな展開がそこかしこで行われた。

中には被弾しても、黙ってうずくまり戦友を待っている者もいたが、なにぶん遮蔽物の多いインドアなのですぐ近くにいても気が付かないなんて事も屡ある。まずは声を出して戦友を呼ぶ。これがキモであるとわかるまでに我々の場合さほど時間はかからなかった。

もっとも、敵も同じとは限らない訳で、私が望楼に上がって下界を見下ろした時、フィールドに点々と横たわる被弾した日本兵の姿が見えた。各々の間隔は結構あいている。目で追ってみると1人、2人、3人、4人・・・1隊全滅である。が、彼らの位置からは全員が見えない為、誰か近くに生存する戦友がいて助けに来るものと思っているのだろう。
が、いくら待ってても誰も来はしない。来る訳がない。
私は上から「日本鬼子、全滅してるぞー」と教えてやった。かくして彼らも復活待機点・通称「ヤスクニ」へ向かった。

キモといえば、本ゲームでは白兵戦闘ありとしていたのだが、これが予想外に強力で再三に渡り猛威を振るった。
といっても我々は仕掛けられた側であったのだが。

1度目、私は短銃身ボロモーゼル(マルシン改)が持参したマガジン3本とも空になり、友軍のすぐ後方で装填をしていた。急ぎ戦線復帰せねばと思っていたので前の方で交戦中なのは承知の上で装填に集中していた。
突如「バタバタッ」という足音が響く。
俄かに騒がしくなったと思った刹那、軍刀「スポーツチャンバラ」を振りかざした東洋鬼が乱入、たちまち近くの2名が斬り伏せられた。私も空のマガジンを装填済の物に持ち替え迎撃しようとしたのだが、敵の切先が届くのはそれより早かった・・・
弾切れも照準の必要もなく、当たるを幸い薙ぎ倒すという正に言葉通りの活躍で、この時は4名が刃の犠牲となるという奮戦振りであった。

が、これで終わりではない。

それから2時間程後、私は再度抜刀隊の襲撃を食らう事となる。
この時もやはり私は、空のマガジンを抱え装填を行っていた。1回目の教訓もあり、前線からは少し離れた所で装填をしていたのだが、前線の2名はスポチャン1振りで瞬殺され戦闘不能に陥り、抜刀兵はその勢いのまま駆け抜けようとしたらしく突っ込んで来た。私は正に銃に装填されんとしていたマガジンを一撃で叩き落とされ、当然ながら再びの被弾というか被刃と相成った。
幸い、騒ぎを聞いて駆けつけた同志が射殺して彼の攻撃は止んだが、それでも3名が数秒のうちに負傷するという大戦果(いや我々には戦禍)である。

この戦の後、我が人参解放軍でも抜刀隊を組織すべきという声が挙がったのはいうまでもない。

これだけ読んでいるとしょっちゅう弾装填しているみたいに思うかも知れないが、実はそうである。
とにかく「10分しのげば休憩が入って準備出来る」とかいう、通常ゲームの常識は通用しないのがこの長時間戦闘である。
敵は基本ボルトアクション(味方もだけど)だから3本81発あれば充分だろう、普段の電動相手でも2本あれば充分なのだし・・・と考えていたのだが、実際はだいぶ異なった。
分隊支援火器は1グループ1丁まで認められていたのだが、我が方では誰もいなかった。従ってセミオートとはいえ、速射性のあるガスハンドガンは唯一の制圧火器としていろんなシーンで撃ちまくる事になり、結局ちょくちょく弾切れリロードをする事になっていたのである。

準備に時間がかからない事から開始時はマルシンモーゼルで参戦していたが、途中長い休憩を入れたのでこの間に準備をしてフジミのモーゼルも実戦投入した。
フルオートの制圧力は文句無く強力だったが、36発という弾数はすぐに弾倉交換が必要になってしまう。
加えて4マガジン程で今度はガスが切れる。しょっちゅう補充していたが、弾&ガス両方の切れるタイミングを常に意識していないといけないので、結局これなら弾だけ補充していれば良いマルシンの方が楽、という事で再度マルシンモーゼルにスイッチする事となった。これもまた長時間戦ならではの特性といえるだろう。

私の場合はこんな具合にいつ必要になるかわからないので全て雑嚢に入れて持ち歩いていたが、他の参加者にとってガス・弾の補充(そして予備銃も)をどうキープするかは人によりまちまちであった。
ゲーム開始地点にデポする人、フィールド外の復活待機点に置く人・・・
ただしどちらも一長一短がある。ゲーム開始地点は敵に制圧される恐れがあり(フラッグ奪取は勝利条件ではないので)、かといって復活待機点だと死なない限り補充に行けない・・・
実際にやってみて思ったのは、予備銃含め全て持って歩くのが一番。何たっていつどこで戦闘になるかわからないのである。隙を見て補充する為には、どこでも出来る様にしておくのが戦力を低下させない一番の方法。それにコッキングとかボルトアクションだったら弾さえ込めれば幾らでも戦闘を継続できるのである。

さてさて、話は戻るが我が方のモーゼルはこんな状態だったので、敵方の百式短機関銃は最大の強敵だった。ガス補充の必要がない電動な上、MP5のノーマルマガジンはフジミモーゼルの倍以上装弾出来る。
百短が戦場に出て来たら、まずこれを潰さないと戦場の主導権を握れないと言えた。
今回重機は無かったが、「重機を以って対抗したい・・・」と思った国府軍兵士は少なくなかったと聞く。

そんな中でも、流石に米軍部隊は自動化が進んでいた。ガスハンドガンの配備率はピカイチ、この火力を生かして機動的な戦闘を行い、しばしば我々の前に強敵として立ち塞がっていた。
私もフジミモーゼルのフルオートによる制圧で、何とか彼らを建物の1室に封じ込めた事があったが、結局ガス装填の間に離脱されてしまっている。

当初、比較的民間人系の参加者が多くなるかなと予想していたのだが、あにはからんや半数以上はそれなりの軍装が揃った。
勿論言うまでも無く、最大数は我々国民党政府軍と日本陸海軍である。この「青灰色」対「カーキ」の対決の様相はまるで歴史の1コマを目の当たりにしている様であった。
とにかく、マーカー不要というか体の一部分でも見えていれば敵味方の識別が可能というのは中々普段のゲームでは無い事だし、両腕に装着していてもマーカーの確認が困難となるインドア戦においては特に役立ったという印象がある。
ビジュアル的には人参画報を是非参照してみて欲しいが、いちいち「帽子の素材がどうだとNG」とか「人民解放軍装備は色が違うからダメ」等とウルサイ事を言わなくても、こんなにも雰囲気のあるゲームが出来るじゃないかという事を参加者一同身を以って体験出来た。

特に国府軍は、人参解放軍被服廠にて安く提供しているので暴虐無尽な日本兵に楯突きたい人は是非利用して欲しい(っと宣伝でした)。

さてさて、自分が歴史の瞬間に身を置いている様な独特の感触は画報から感じ取ってもらう事として、こんな様相なので参加者のテンションも上がりまくりである。
インドア戦らしく、敵は常に正面からとは限らず正に四方八方から敵弾が飛んでくるので一時も油断ならないし、また被弾しても戦友のタッチがあればすぐに戦線復帰出来る。逆に言えば1人倒したからといって喜んではおれず、周辺の敵を一掃しないとその場での戦闘が終わらない。
どちらかというと一部の人間だけが前の方でがんばって・・・という通常のゲームと違って、誰もが積極的に戦闘に参加、というか巻き込まれるしかない状況なのだから、ある種当然なのかも知れない。
思わず力が入りすぎて持参の小銃を真っ二つにしてしまった者もいる位。
「生きて虜囚の辱めを受けず」を忠実に守り、敵味方の中間地点で被弾し助けを呼ぶ戦友に一斉射撃を加える日本軍なんて場面もあり、我々はその仕打ちに言葉を失った。

初戦では全滅の憂き目に遭い日本軍勝利となったものの、その後はこれら激戦を制し、我が中国軍陣営が日本軍を再三全滅せしめるという展開を繰り広げた。
かくして予想外の損害を出した日本陸海軍は一旦上海城内の完全制圧を断念、という事でTIME UPというの名の休戦と相成り、総員一旦城外に整列した。
 

終章:戦い済んで
外はまだなんとか日没の前、誰言うと無く自然と部隊単位で整列されていたのはこの数時間の激闘を戦い抜いた戦友としての意識の芽生えからだったのだろうか。

私は簡単な挨拶を行った後、副官を呼びある「箱」を取り寄せた。この中には、この日の為に特注で用意した「第一次上海事変でGO!従軍章」が詰まっていたのだ。
ねぎらいの言葉と共に本日参戦した1人1人に手渡して行く。

実は「参戦者に何か記念品の配布を」というのは当初計画時に話はしていたものの、何にするかなど決まらず一旦立ち消えになっていたのだが、「これだけの大イベントに皆の記憶だけでは勿体無い。些かなりとも関連グッズでその気分を盛り上げられたら」と私の独断で製作を実施したのである。従って当日まで誰も是を知る者はなかった(当初のグッズも「手ぬぐい」とか言ってたし・・・)。

正に予想外、突然の従軍記章配布に、参加者一同は大いに盛り上がった事は言うまでもない。

こういった実利的な事に手間隙を惜しまずイベント参加者に貢献する。
これこそ建軍以来「福利に厚い人参軍」を唱えてきた我々の面目躍如といったところではないだろうか。

かくして5月18日の戦闘は事故・トラブルも特に無く無事終焉した。
しかし、これはその後長きに渡って続いた日中十五年戦争の「始まりの終わり」でしかなく、我々は次の戦いに向け万端準備を怠る事は出来なかった。

という事で、次回「第二次上海事変でGO!」は10月12日(日)の予定である。

服が無ければ私服でも可、コッキングハンドガンすら歓迎のこの世紀の激突に君も乗り遅れるな!



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