ベトナムなのに寒かった!ーベトベト第6戦
2008/4/20



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2008年4月20日 茨城県守谷地区ベトベトフィールド
参戦数 北越南側勢力 57名  米帝&傀儡一味 137名 (開戦前の公式HP発表による)
人参解放軍より4名参加
 筆・紅中兵

昨年10月の初参戦に続き、この4月に行われた第6回ベトベト戦にも我が人参解放軍は遠征隊を派遣、暴虐なる米帝(この言葉はプロパガンダじゃなくて本当だった事が判明。詳細は後ほど)の圧政に虐げられる越南人民を救うべく、米帝の犬とその傀儡を相手に激闘を繰り広げた。
4月も末だというのに何故か(いろんな意味で)寒かったこの日の戦況は以下の通りである。
 

その1:我等越南防衛隊
さて、米軍側137名越南側57名(ベトベト戦HP公式発表)となった今回の越南戦であるが、我が人参解放軍からは4名を派遣、例によって中国軍の非公式部隊として参戦した。
開会式やら寸劇によるルール説明は前回と同様なのでさておき(でも今回はヘリコプター輸送ルールが無かった)、何故か今回も前日に雨が降りフィールド大半はぐちゃぐちゃ、でもってまた例によって総司令部をどこにするかでしばらく彷徨った後に、何とか高台を見つけ本部テントが設置され(実はこの地形が後の米帝総反攻の際に防衛上非常に有利に働く事となった)、北越側のブリーフィングが開始された。

前回同様、正規軍と農民遊撃隊とに分かれる。なんと今回は黒服の方が全然多く、正規軍1・農民隊2の3部隊編成となった。
勿論我々は帽子以外越南正規軍と同様の装備(というより我々が越南に供与したのだが)なので、正規軍部隊に編入。

ところが今回、正規軍は我々を含め19名。我が人参解放軍が総兵力の20%を占めるという何ともお寒い状況であった。

しかも我々は後方支援のつもりで主力を迫撃砲に置いていたのでAK47を装備するのは2名のみ。
農民隊は30名程度いたので、2分割して村長を選出しようとしていたが何故か日本人の様に皆譲り合ってだれも立候補していない。結局何となく政治指導員同志が任命していた様であった。

正規軍は人数こそ少ないが、逆に部隊全体に目が届くので部隊行動は取りやすいだろう。
幾ら集まったところで所詮米帝などミーハーな烏合の衆「ナム戦」といったら本当の主役は我々越南軍であるという事を思い知らせてやるのだ!

今回、部隊長にはお目付け役として黒服の政治局員が付き、この政治局員は本部にいる党中央政治指導員からの直接指示が無線で届く様になっていた。
開戦前のアジ演説で部隊長は叫んだ。

「私の声は政治局員同志の声、政治局員同志の声は政治指導員同志の声である。党の指導の元、一丸となって米帝を打ち破ろう!」

かくして、100名を越す米帝の犬とその傀儡を向こうに回した大決戦はここに幕を開けたのである。
 

その2:危機!解放戦線旗、奪われる!
下はぐちゃぐちゃとはいえ行軍出来ない程ではなかった為、今回はフィールド全面を使用しての展開となった。我が正規軍部隊は前回のベト戦では使用出来なかった川沿いの南方ルートを、農民隊は土手に近い北方のルートを進行する事が決まり、我々は生い茂るマングローブ林みたいな川沿いの茂みを左手に見ながら前進した。

越南正規軍は警戒心が薄く、密集して雑談しながらというゆるゆるな行軍をしていた。もし万が一敵が長距離偵察隊などを出して高速で進出していた場合、この人数ではアンブッシュ一撃で全滅の危険もあると判断した私は配下の同志を砲の全面に展開させ、前方を警戒しつつ砲を設置するに適当な地形を探す様命じた。直ちに5メートル程の間隔をあけ、さっとブッシュ内へ消える同志達。

ややあって1名が報告に戻って来た。どうやら敵が動いている気配があるらしい。

我々が砲を設置していると、越南軍本隊も敵の気配を察しわらわらと展開が始まった。
ふと見ると、砲の右手後方に今回の部隊が軍旗として使用している解放戦線旗が。
とすると、この当りを前進部隊の中心に据えて傀儡共を迎え撃つ覚悟らしい。

かくして越南同志達が密林に消えた頃から、散発的な銃声が聞こえて来た。
ちょっとまだ射程距離が読めない為、まあ今回は5発あるからという事で試射を兼ねて砲撃を開始した。
思いの外飛んでいない。前回より草木が茂っておらず視界が良すぎる事も、力不足を感じさせる原因になっているだろう。

そうこうしているうちに、敵突進隊が進出して来た。我が砲の前方でも応戦が始まる。
ありったけ撃ち込んだがどうも射程距離が伸びていない様だ。止む無く砲弾補充の為に一旦後退する。

軍旗の更に20m程後方にあった茂みの裏でモスカートに弾とガスを詰めていると、続々と友軍が下がって来る。
敵主力と激突し、相当数の被害が出て後退が始まったらしい。

我が同志達が戻って来て言った。

「前線はボロボロです。越南軍は撃破され部隊旗も敵に奪取されてしまいました」

これはとにかく急いで装填を完了し、機動出来る様にしておかないとと思っていると、次に戻って来た同志から衝撃の発言が。

「軍旗を奪取された越南部隊長は責任を痛感し単身敵と交渉に向かいました。決裂した場合に備え急ぎ砲を前線へ!

とりあえず2発しか用意出来ていなかったが、直ちに砲を抱え前進する。
着いてみると、越南部隊長と敵数名の周りを米帝と越南軍がそれぞれ取り囲み、一触即発の状態であった。
たがいに銃口を向け合っているが、あくまで第1目標は交渉であるので我々は別名あるまで発砲しない様、注意して欲しい旨を重ねて言い渡された。

部隊長はあの手この手で条件を提示している様だが、米帝は中々色よい顔をしない。
と、突然米軍の発砲が!無論我々も応戦したちまち壮烈な銃撃戦となるが、先手を打った米軍が有利で我々はその大半が戦死(負傷どころじゃない即死が多発)した。

結局、旗は奪回できず部隊は壊滅した。
 

その3:壮絶!越南波状攻撃を見よ
一旦は本部に戻った我々であるが、直ちに軍旗奪還部隊の編制に取り掛かった。
私自身は砲弾の弾込め及び故障した砲弾の修理がありこの部隊に志願する暇は無かったが、我が軍から3名を抽出し奪還隊に送り出した。
勇ましく出陣する我が同志達を見送った後、私は弾込めと時間的な観点から昼食の用意を始めた。
とりあえず交戦はいつでも可能なようにしておく。これが長時間戦のセオリーだ。
3発の発射準備は完了し、不調の2発もどうやら2コ1にすれば1発は救えそうだと判った頃、奪還部隊が散り散りに戻って来た。
この様子からすると、戦闘は激烈を極めたようだ。
それから更にしばらく後、同志達が帰ってきた。やけに遅い。

聞くと、やはり部隊はほぼ全滅に近い損害を受け作戦は失敗に終わったそうだ。
彼らは敵の捕虜となっていたが、持参した冥府銀行券で1人あたま10万元の身代金を払う事により釈放されたという。
前回の教訓から農民対策として用意していた軍資金がこんなところで役に立つとは。
正に地獄の沙汰も金次第である。

そんなこんなで概ね戻って来たところで、懲りずに第二次奪回作戦が開始された。
結構間髪居れずなところがあったので米軍も油断していたのか、今回は成功。
我が同志諸君もほくほくで意気揚揚と引き上げてきた。

さて、軍旗も一旦元のサヤに納まったところで丁度昼食の時間。

今回もやはり作戦行動を重視し、通常なら炊飯を行うところを麺を主体にして調理時間の迅速化を狙った。
とはいえソバだけだとバリエーションもないし、前回焼ソバを1人当たり2人分用意したのに足りなかったという事もあり、具沢山の湯(スープ)も作る事にした。
で、このスープによって気がついたのだが、チョット前まで沸騰させていたのに配り終わってさあ食べようかという頃にはもう全然熱くない位に冷めてしまっていた。なるほど、気が付かなかったが実は思いの外寒かったんだね。
これじゃあガスを大量に消費する迫撃砲が存分に威力を発揮出来ない訳である、と納得。
 

その3:非道!鬼畜の亜米利加合臭国
さて、午後の戦闘再開にて、また午前中の初回と同様の配置で我々は唯一の正規軍ユニットとして南方の道を偵察前進した。
ややあって小規模な遭遇戦。どうやら米軍は今回は小部隊を偵察目的で前方配置していた様だ。
我々はあっという間にこれを撃退し、敵通信兵を捕虜にした。
とはいえ、まだこれから敵側に肉薄したいところなので捕虜は正直、お荷物だ。
ここでまた部隊長が提案。
「捕虜釈放を条件に米軍を後退させてみよう」

という事で、かの通信兵を先頭に米軍が潜んでいると思われるブッシュに前進。
姿こそ見えないがおそらく向こうからは判っている筈、という地点で越南部隊長は呼びかける。

「お前たちの仲間を返して欲しくば、この地点から後退せよー」

返って来た答えはフルオートの銃弾であった。
捕虜及び数名の越南兵が射殺され、我々は友軍にも容赦なく銃口を向ける米帝の極悪ぶりをなじりつつ、一旦射程距離外へと後退した。
戦死した米通信兵を置き去りにして。
 

その4:サイゴン遥かなり
安全圏に戻り体制を立て直した我々は、「せっかく前進して来たし、やっぱ攻められるばかりじゃなくこっちから攻め込んでやりたいよねー」という事で、川沿いに近いルートからサイゴンに肉薄し敵の首都周辺を心胆寒からしめる事とした。
我々人参軍はちょうどメガホンを持参していた事もあり、気温の関係で元気が無い(事が昼食時に判明した)迫撃砲に代わり投降を呼びかける宣伝隊として参戦
とはいえ、メガホンを携帯している以外は通常の歩兵部隊と同じである。身軽に機動し、得意の集団戦法で敵を圧倒しサイゴンを含む高台の一端に取り付く事に成功した。

越南部隊長が言う。
「今です、プロパガンダ開始!」

敵のいる方向に向かって呼びかける。

「お前達は包囲されている。無駄な抵抗は止めて投降せよ」

「アメリカ兵は越南の地から出て行け」

だが、若干名しかいない守備隊は頑強に抵抗を続け、その間に援軍を呼んでいた様だ。
我が宣伝隊から一番遠い側で銃撃が活発化したと思うとたちまち越南兵が負傷、次々と後方に運ばれて行く。
やがて敵多数接近の報が我々のところに届き、このままでは逆包囲される危険があるとの判断により一端射程距離外まで後退する事となった。

欺瞞の為に当方からも激しく撃ち込み返し、その間に友軍は粛々と後方のブッシュまで撤退した。
後退する越南兵の方を見ると、2名に1名は負傷し戦友に伴われて不自由に移動していく姿が列をなし、痛ましかった。

しかし、これで終わりではなかった。
我々が拡声器で言いたい放題言っている間に、米軍の主力は我々の後方へと機動していたのだ。
かくして、下がっていった先で再度戦闘が発生、負傷兵を連れた各部隊は次々と全滅していった。

我が人参軍も、作戦発起点まで戻ったところで強力な敵部隊と遭遇、川沿いの茂みに入り様子を伺ったが、すぐ側にいた越南部隊長が立ち上がって敵情を探ろうとした途端、激しい銃撃を受け蜂の巣にされて崩れ落ちるのを間近に見た。

もはやこの地に留まる事は無益。我々は更に川沿いの際、マングローブっぽく木が生えている当たりを途中応戦しつつ、本部へ向けて後退した。

かなり後退し、先行した越南軍とほぼ平行なところまで到達したかと思った時、その越南正規軍がいると思われる方向から銃撃を受けた。
ははあ、米帝の特殊部隊と勘違いしているな、と声をかける。

「待った待った、友軍だよー」

「あーすいませーん」

といって、お互いに歩み寄って姿が見えるとおっと違う!

「あれ?敵じゃん!」

というわけで、なんかこんなの映画であったなーと思いつつ再びマングローブ林に急ぎ反転。
弾薬が豊富なら応戦しても良かったのだが、いつの間にやら殿軍を勤める形で後退していた為、もうほとんど底を尽き掛けていたのだ。

弾薬補充・部隊再編・戦況確認・・・様々な意味で、一旦本部に戻るのが急務であった。

途中2度程、マングローブ林より通路に出ようと接近したがいずれも米帝と傀儡の姿が散見され、結局足場の悪い中をひたすら野生動物の如き俊敏さで後退を続けた。
フィールド半分以上を既に戻ったかと思われたあたりで、マングローブ林もやや薄くなりまた本道との距離も近くなりこれは危険そうだな、という地点があった。
わかってはいても他に迂回のしようがない。
止む無く、慎重に進んでみる事にした。
一見、静かである。とにかく見を低くして前に出る。
と、激しい一連射。やられた。
ここで負傷して寝てても永遠に助けは来ないだろうから、とにかく死亡した事にして出て行く。
確かに自軍本部には近かった。ちょうど本部を急襲しに来た米帝正規軍部隊の真後ろに出てしまっていたのだ。
米無線兵の側には越南の同志達が数名転がっていた。ここまで戻れた者も居たのか。だが・・・残念である。
 

その5:越南スターリングラード
本部に戻ってみると、実は大変な事になっていた。
私が接触した南方ルートからだけでなく、更に迂回して東方と中央を進んで来た(と思われる)西方、そこらじゅうから米帝とその傀儡の犬共が大挙して越南軍本部に押し寄せて来ていたのだ。

本部テント周辺は、目の前に敵が現れた、10時方向が手薄で突破されそうだ、1時方向援軍を送れ、と「ここはスターリングラードですか?」状態のてんてこ舞いとなっていた。

数少ない正規軍は、農民と共に走り回っては敵の突出した地点を押さえに向かう。
我々も大急ぎで弾薬を補充すると、本部のある丘から眼下で蠢動する米帝のLARP隊に銃撃を開始。
敵部隊はたちまち約半数の負傷者をその場に遺棄し、一旦射程圏外へ後退した。
すると今度は左手の方から怒号が響く。

「突破されるぞ!動ける奴は来てくれ!」

直ちに駆けつける。
やや斜面になっているものの、ここも米帝のいるところとは明らかな高低差があり、こちらは隠れ場所こそないものの撃ち下ろしで狙い撃ちが出来るので非常に有利だ。
一方の米軍側はブッシュなどの遮蔽物こそ多数あるものの、結局どこに隠れても狙撃されるので身動きが取れなくなっていた。

冒頭で触れた、本部の設置位置がここで戦況を有利にする方向に働いたのである。
米軍側は広く展開して地図上は北越本部を包囲する形になっていたが、実際には丘の上に聳える本部テントに到達する為には険峻な崖が克服しがたい障壁となって立ちふさがり、加えて一部前日の雨で足元の極めて悪い個所もありこれも米軍の機動に足かせとして作用した。

かくして米・南越による北の本拠地攻略作戦は、膨大な捕虜と戦死者を出して失敗した。
正確な数はわからないが、撃ち合っていた銃口の数から察すると無事に撤退したのは半数以下だったのではないだろうか。

後退した米帝を追って我が方の一部部隊は追撃を実施、途中で多数の捕虜を連れて帰ってきた。

その中に、見知った顔が。おお、あれはロバート支隊。
我が人参軍は彼ら一隊を丸ごと頂き(それでもまだ多数の捕虜がいたのだ)、待ってましたとばかり茶菓でもてなした。
ご存知、「徳を持って敵の心を攻める」策である。

人心地ついたところで、「ところでさあ・・・」

この後、何が交わされたかはここでは語れない。
ただし、作戦遂行上非常に有益な情報を我々は入手する事が出来、役目を終えたロバート支隊は穏便に処置された
 

その6:そしてテト攻勢
失敗に終わった敵の反攻作戦から我々は多数の捕虜そして情報を得る事が出来た。
これらを総合して越南軍指導部では今度はこちらから敵本部を急襲する作戦を立案、全参加部隊に召集をかけた。

「敵は現在、再度の大攻勢を準備し某所に集結中との情報を得た。これにより首都サイゴンは手薄になっているので、我々は全力をもってこれを陥落させ、また米大使館を占拠する」

総員、本部を後に南方通路に出て集結。友軍偵察隊からの連絡を待つ。
しばらく待った後、作戦参加の最後の米軍部隊がサイゴンを出立したとの無線連絡が入った。さあ出撃!

かつて我々が午後イチで進んだのと同じルートを進む。そしてサイゴン手前で横に展開し、半包囲する状態で総攻撃。
かねてよりの目論見どおり、残留守備隊は数も少なく戦意もなく、サイゴンはあっけなく陥落した。
我が軍は再び砲兵隊として参戦していたのでサイゴン入城は既に制圧後となったが、そこかしこに米軍の負傷者が転がり、右手遠くではまだ大使館を巡る攻防が続いていた。
建物での戦闘なので中の状況は良くわからないが、一頻りの銃声の後に星条旗は引き摺り下ろされ、この館の主人が代わった事を象徴した。

しかしながら米軍の反転も早かった。
一旦首都を奪われた彼らは、周辺に広く展開し再突入の機会を伺っていたのだ。

一度平静を取り戻したサイゴン郊外では、早くも畑仕事を始める農民もおり、戦争はこれで終わったかに見えた。
しかし、彼らの平和への願いは儚くも再度米軍の軍靴で踏み躙られたのである。

それは唐突に始まった。
東西南北、全ての方向から米帝と南越南軍が雪崩れ込んで来る。米軍総反撃の始まりだ。
遮蔽物もなく、360度全てが攻撃正面という状況に次々と倒れ逝く同志達。
私も最後の最後まで迫撃砲を撃ち続けたが、M16に着剣した米帝の白兵突撃に遭い、砲弾を握ったまま胸を貫かれた。

かくして最後の一戦は終了した。
 

その7:エピローグ
本日の作戦は全て終了。どうせみんないるよねって事でそのまま閉会式に突入した。
実はラストのテト攻勢は弾無しカラ撃ちのお約束プレイだった訳だが、これについてアンケートが。
大多数は賛成の様だったが、個人的にはカラ撃ちは銃を痛めるので好ましくない。またあれだけの配置であれば別に普通に弾を入れて普通のルール通りやっても結果は同じでは?という点から、私は反対に挙手をした。
(ラスで迫撃砲だったのもモーゼルのカラ撃ちが堪えがたかったからである)

アンケートの後に、表彰式が行われた。
どうも戦死の回数によって評価されるとの事で、米軍サイドの方は南だったか豪華賞品だったが北越サイドの賞品は水牛の頭蓋骨の飾り。正直もらいたくない系。
まあ、別に賞品目当てで参加してる訳じゃないから良いんだけどね。

この後全体集合写真を撮って、まあ今回は特に何もなく終了。
我々は翌月にひかえた人参軍主催イベント「上海事変でGO!」の話題で盛り上がりつつ、帰路についたのであった。
 

補足:
そういえば今回、農民(黒パジャマ)の人数はやけに多かったけど畑見なかったぞ!
 




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