越南之風ーviet vietしま戦か2007参戦記
 




去る10月28日、茨城にて行われたベトナム戦争イベントゲーム『べトべトしま戦か?』に我々人参解放軍は当然の如く中国人民解放軍ユニットとして参戦した。
以下はその映像的記録の数々である。
尚、人参日報ゲームレポート「人参サバゲ通信」の方には詳細なレポートが掲載されている。
画像なき英雄達の活躍については、こちらも是非一読して欲しい。
 


開会式の為に終結せる北越南正規兵及び解放戦線兵士達。
はるか向こうに翻るはにっくき傀儡政権の国旗である。撃つべし!


こっちは帝国主義者と傀儡・その他民間人など。
アオザイ姿の女性も数名散見されたがゲーム中どこで何をしていたのかは良く知らない。


越南娘にオイタをしてMPに捕まる米帝、ではなくてゲームの特別ルールを説明する主催者の皆さん。
負傷ルール・メディックルールやヘリ輸送ルールなど通常のサバゲにはない本イベント特有の幾つかのルールについて予め実演を交えた説明があった。


開会式終わり、畑仕事に向かう越南農民諸君。
この後1時間としないうちに、フィールド内特定エリアにはきちんと耕され怪しげな物が植えられた畑を有する越南人の「村」が出現し、我々と米帝共との間で幾度にも渡って争奪戦が展開された。


去り行く農民を見送りつつ戦略を構築する北越正規軍及び支援外人部隊の面々。
後方に翻る赤旗は我ら人参解放軍の軍旗である。ちょうどその辺が北越軍の「本部」として指定された。
をっと写真中程に、公式には存在しない筈のソ連軍事顧問が!


部隊編成を終え、出撃を直前に控えた北越陣営。
大きくA・B・Cの3部隊編成により各々単位で作戦行動を実施した。
ちなみに我が人参解放軍はCの外人部隊所属として、緒戦は越南人の村に近いルートを進攻した。


史実の中国軍は主に後方任務を担当した事に則り、我々も迫撃砲を携え後方からの火力支援を行った。
ブッシュ濃く比較的近距離戦闘の多発した当戦場では本砲の曲射は極めて有効、人参解放軍最新の7式汎用歩兵砲曲射による初の戦果が記録される事となった。


我が人参軍が捕まえた、本戦における最初の米軍捕虜。
猛り狂い4文字単語の悪態を大声でつきまくる米兵には、優秀な人参軍戦士達でもちょっと困惑気味である。


その後、我々はこの初の米軍捕虜を手厚くもてなし、また粘り強い説得が功を奏した事により、彼も世界人民としての自覚に目覚める事が出来た。
ホー主席の写真を手におもわずにっこり。


部隊に帰還した彼の説得によるものか、その後米軍は越南人の村を攻撃しこれを占領するに至ったものの戦闘中に捕虜となる者が相次ぎ、北越軍は彼らの尋問により最新の部隊配置を掌握、一気に反攻作戦を展開した。
画像は正に村を奪還した直後、歓喜に沸き返る農民転じた解放戦線と北越軍の兵士達である。


村を解放した我々は直ちに警戒態勢に入り、傀儡共の反撃に備えた。
歩哨に立つ同志金子の後方では土地が戻って安堵した農民が一息、くつろいでいる。


この日、前日に襲った台風の余波で川は水かさを増し、戦闘エリアとして予定されていたフィールドの相当部分が水没してしまった。
写真は増水で畑を失い途方にくれる農民に見えるが、実は彼の視線の先には・・・


本来であれば北越軍本部として使用される予定であったテントが。
その後も増水は続き、この本部は敵からも味方からも容易に接近できない難攻不落の要害となってしまった。
なお、テーブルの上には当日の戦死者を記録する「デスノート」が置かれていたらしいがどうなったのかその後の消息は定かではない。


とはいえ、洪水ごときが北の同志達の戦意にいささかも影響を与えるものではない。
敵の虚を突き奇襲挺身を行うべく、現地部隊の案内を受け水中を進軍する同志達。
※この画像はイメージです。増水した河川に入るのは大変危険ですので良い子は決して真似しちゃダメだぞ!


数多の戦とネタに満ちた1日が終わり、人参軍旗を手に閉会式会場へと向かう人参解放軍の戦士達。
米軍と比較し明らかに軽装だが、この装備の差が最期までバテずに戦える原動力となった。


ラストの記念撮影。
右前方に見える人参赤旗の周辺にいるのが人参解放軍越南遠征部隊である。


最後の最後に、水没した本部テントを背景に記念撮影。
増水はより進んでいるナアー。
他人の災禍をネタに失礼なもんである。


おまけ:
この日ゴミをまとめた袋が、ふと見たらなんと「ユネスコ」であった。
何かよくわからんが地球印だし、遺跡の保護とか発展途上国の教育活動とか推進しちゃうんだろうか。
 
 


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