第八次上海事変顛末
2013/4/28
2013年6月6日
筆・熊翔武(歴史家)
2013年4月末、ユニオンインドアフィールド、通称「リトル上海」にて日本軍、中国軍が再び衝突した−−−
今回で8回を数えた上海事変である。
直前までの予測とは異なる結果となった今回の戦いの推移を当時の記録・兵士の証言から追っていこうと思う。
<両軍の状況>
今回、日本軍側はベテラン部隊「防人会」を中心とした正規軍に義勇軍を加えた編成となっていた(この義勇軍は「自衛隊」と呼ばれていた。本記事でもそう呼称する)。他の勢力が入っていない為、指揮系統をまとめることができた反面、上海戦経験者は少なく日本軍の一部と自衛隊以外はリトル上海は初めてだった。
それに対し中国軍は軍民問わずかき集めた為、民兵や馬賊まで含まれていた。統率面で不安はあるもののリトル上海での戦いを心得ている者も多く、練度も以外に高かった。
兵器面でも差があり、日本軍は短機関銃を多く配備していたのに比べ、中国軍側はそのほとんどがボルトアクション・ポンプアクションの銃であり、火力の差は大きかった。
この様な状況の為、開戦前は正規軍を投入した日本軍が優位かと思われていた。特に自衛隊は前年も参戦、猛威を奮った事から、敵味方から注目されていた。
そして準備を終えた両軍はリトル上海に集結した。
<開戦(1戦目)>
開戦直前、両軍にそれぞれ作戦目標が言い渡された。
日本軍は町のどこかにある「北京原人の頭蓋骨」を、又中国軍は秘密資金の金塊を回収・持ち帰れという命令が下った。
そして2013年4月28日 14:05 戦闘開始。
ここに第八次上海事変の火蓋が切って落とされた。
ここからは動きがある程度わかっている中国軍側の視点から戦況を追っていく。
開戦直後、中国軍第一分隊(指揮官:紅中兵)は上海銀行に、第二分隊(指揮官:チョッパー)は中央の四行倉庫へと進出した所で接敵、たちまち激しい銃撃戦となった。
そんな中、第一分隊が金塊の回収に成功するが、敵の攻撃から離脱が出来ない状況となる。
しかし、第二分隊がすぐさま援護に廻り脱出路を確保、そのまま城外への脱出に成功し、初戦は中国側が勝利した。
この結果、中国側は次の戦いにおいて支援(具体的には分隊復活回数が+2)が受けられる事となった。
<2戦目>
この戦いからはどちらかが全滅するまで行われる総力戦に推移する。
そしてこの2戦目も中国軍優勢で進むこととなった。
日本軍は地の利が無いのに加え、優位だった筈の機関銃類が軒並み不調というトラブルに見舞われ苦戦を強いられていた。
それに比べ中国軍は連射が効かないが信頼性の高い銃器で固めた事と、高い練度、うまく連携を行った事等が幸いし、その結果が大きく出たといえる。
結、局この戦いは中国軍優勢のまま終えることとなった。
<3戦目前半>
2戦目を優位に進めた中国軍だが、すべてが順風満帆、とはいかなかった。その理由が「自衛隊」の存在であり、その練度、火力の高さから度々苦戦を強いられており、この3戦目でも同様であった。
それでも、日本軍を楽宮旅社・楓林閣酒家に追いつめる事に成功する。
そして第一分隊は楽宮、第二分隊は楓林閣へとそれぞれ突入した。
楓林閣には敵はおらず、少しの間、のどかな雰囲気に包まれていた。
そんな中、それは起きたという。
索敵がてらのんびり構えていた第二分隊に向かって楽宮からまっすぐ走ってくる影、それは自衛隊員の生き残りだった。この時、楽宮では第一分隊と自衛隊が交戦、劣勢だった自衛隊は楓林閣へ撤退したところ、第二分隊と鉢合わせする事となった。あまりに突然(意外?)な出来事に両者共々動けず、少しの間沈黙が支配したものの結局、自衛隊員は降伏、ここに上海戦史上初の「捕虜」の記録がつく事となった。
<3戦目後半>
その後、中国軍各分隊は索敵行動の為、分かれて行動していた。
そんな時だった、どこからか声が轟いた。
「ドラゴンボール!」
と。
龍魂ーーーそれは七つを集めると願いが叶うといわれる謎の玉であり、過去、これを巡って血みどろの争いが何度も繰り返されたという。
そしてここ、リトル上海でも例外ではなかった。
中国軍内では瞬く間に銃撃戦となり、同胞の血に染まった玉を奪い合い始めた。
そこにはすでに上司・部下、先輩・後輩、戦友などは意味をなさず、ただ醜い争いが繰り返されたという。又、この結果がどうなったか解ってはいない。
<4戦・5戦>
その後も激戦続きとなる。全体的には中国軍優勢で進むが日本軍も建物を利用した突撃・白兵戦を行う等、熾烈な抵抗をみせる。
1つの建物毎に激しい銃撃戦が行われ、その度多くの戦死・自決者が出た。
そして18:00、両軍に戦闘停止の命令が伝わる。
休戦合意がなされ第八次上海事変は幕を閉じた。
<総括>
今回の戦いはほとんどの場面において中国軍優位で進むという戦史上希な展開となった。
その大きな原因はやはり、両軍の「場慣れ」の差だと言える。上海戦が初めてという者が多い日本軍に比べ、中国側は2戦以上、人によっては7戦は参加している者もいた為、練度のかなり開きがあったと思われる。
また、武器の不調から火力優位を生かせなかった事も影響したと思われる。
中国軍も問題がなかった訳ではなく、かき集めであるが為に連携がぎこちない部分が若干見受けられ、課題を残した。
しかしそれでも致命的になっていない事はやはり練度の高さでカバーしたからといえよう。
これにて、この第八次上海事変の記録を終えることとする。
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