人参軍を震撼させた事件ファイル@「12・12事件」
2012/12/9
2012年12月9日
筆・熊翔武(歴史家)
近年になって、人参解放軍(以下、人参軍)である事件に関した情報が開示された。
人参軍内でこれまで「12・12事件」または「サンタ・パンサー事件」と呼ばれていた出来事である。
今回は、新たに発掘された資料等を元に人参軍の視点からこの事件を追う。
<序>
2012年12月9日、H市N橋。ここで赤軍と黄軍による戦闘が勃発し、人参軍は赤軍の一翼として参戦していた。今までもこの地では度々の戦闘があり、人参軍もその多くに介入していたが、この日の人参軍はかなり力を入れていたという。
まず、人員面では別戦線からリン・ウーミン当家、流しのジョンが呼び集められ、厨房部より×厨房部長、内務人参課からは金子領導員を投入、そして最前線では紅中兵主席が直接指揮を執る、と当時の主要・精鋭メンバーが集められていた。
加えて、兵装面でも各種の新型が投入されていた。オーバーホールを終えたばかりのM3グリースガン、M14”SOCOM”小銃、改良されたU-10操桿式小銃、そしてM1918”BAR”軽機関銃等で、これらにより非常に高い戦闘力が発揮できる一方、不利な側面もまた有していた。
まず、被服が聖クラウス装備・通称”サンタ服”であったことである。人参軍では主に政治上の理由から戦術上に不利な装備で戦う事が度々あり、この時も人参軍兵士のほとんどは真っ赤な格好であった。何故この日この様な装備だったのかについては諸説あり、「季節の挨拶」「子供達に夢を与えようとした」「動画映り重視」「戦う前から油断していた」等が言われている。
ともあれ、ゲリラ戦をモットーとする人参軍にとってこれが足かせとなった事は否めない。
このフィールドにおいて戦術的に重要なポイントは、「山」と呼ばれる高地帯である。
かの地を取ることで敵の側面、後方への攻撃が可能となる為、この主導権の有無が戦況に大きく影響した。現にこの日も人参軍では「山」の占領を主眼とした作戦が多かったが、これを実行するに際して一つの懸念があった。
それは本記事のもう1つの主役、「豹」部隊である。この部隊は名前の通り豹柄一色の変わった部隊だが、過去の戦闘において高い機動力を発揮した事が何度かの戦闘詳報に記載されていた事から、人参軍は序盤、この部隊に先を越される事を懸念していたという。
参戦した赤・黄両軍においても、この「サンタ部隊」「豹部隊」は双方部隊の中核戦力と見做され、その動向が全軍の動きを左右する程になっていた。
そしてこの日、このライバル同士は早くも第一戦目にて激突することになる。
<1>
一戦目、人参軍は得意の機動力を活かした速攻で一気に「山」を占領、そのまま敵の頭を押さえて封じ込める作戦を実行した。
戦闘開始と同時に山に殺到する赤服達。
そして真っ赤な一団が山に取り付くかどうかという正にその時、反対方向からも高速で機動する人影が山に肉薄した。
それが豹部隊だった。
双方とも相手を認めるとすぐさま攻撃を開始。たちまち激しい撃ち合いとなったが、この時の勝者は人参軍だった。
狭い通路からの進行の為、展開出来ずに進む豹部隊に対し、人参軍は一足早く山側へ展開し持てる火力を総動員してこれを圧殺した。
日本海海戦の様なT字戦法。人参軍の見事な散開と集中射撃の前に、豹部隊はなすすべもなく壊滅した。
黄軍戦力の要であった豹部隊が戦場から消えた結果、5分後には山全体が制圧され、10分後には敵全体が壊滅しこの戦いは人参軍属する赤軍が勝利した。
この大勝利の報告がミタカ大本営(以下、ミタカ)で留守居を預かっていた諸煩総司令の元に届いた時、周囲の参謀達の中には「(あの赤服でも圧勝とは)敵軍恐るるに足らず」との声が挙がり、早くもミタカまでが楽観的機運に染まっていった(これは、理想通りの戦術を実践して見せた人参軍精鋭達を目の当たりにして舞い上がった前線通信員からの過大な戦果報告も1因であった)。
<2>
その後も人参軍は勝利を重ねていった。その多くは山からの迂回攻撃が決め手となっていたという。この時、度重なる勝利にミタカだけでなく前線の兵にも驕りが出始めており、それが作戦行動にも徐々に影響していった。
しかし、そんな部隊の弛緩とは裏腹に勝利は続いていく。
そして、その機運が最高潮に達したのが、7戦目に行われた正面攻勢である。
7戦目では今まで行われていた山からの迂回を全く行わず、人参軍総員で敵陣正面からの攻撃を実施した。これは戦術的にかなり冒険的な試みだったが、驚異的な事に敵陣近くのブッシュまで損失なしで取り着く事が出来、そこからは得意のゲリラ戦で敵戦力を削ぎ、遂に軍旗を取るまでの大勝利となった。
そしてこの勝利をもって油断しきった人参軍は、いよいよ運命の8戦目へと突入していくのである。
<3>
8戦目。この戦いはまず作戦方針からして人参軍としては異例なものだった。
「まず友軍部隊の展開を待ち、その後戦力の少ない箇所へ増援として入る」という方針が下達された。
所謂「後の先」を執る作戦である。しかし機動性が問われるこの戦場で戦闘開始後に目標ルートが決まるという方針は、同時に初動に遅れが出る事を意味するのだが、この時それを問題視する者はいなかった。
加えて、赤軍内には更に軽率な発言(俗に言うフラグを立てる)をする者すらいた事から、人参軍だけでなく赤側全軍が緩みきっていたこともわかっている。
そして戦闘開始。笛の合図と共に散らばる友軍の動きから、重要拠点である山側が手薄と看破した人参軍はそちらへ向かう隘路に殺到した。
狭く、足場の悪い道を高速で進む人参軍。更に悪い事に、この時隊員の1人が隘路途中で足を取られ擱座するという事態が発生し、これにより後続部隊の機動が一時停止に見舞われ、進撃速度に更なる遅れが生じた。
作戦方針による初動の遅れ、そしてこのハプニングによる想定外の遅延が重なった事で、遅れは致命的となる。
人参軍の先頭がもう少しで山に上がるというその時、眼前に単騎で跳躍する影が浮かび上がった。
それは1戦目で打ち倒した豹部隊の内の1人だった。
彼の放った一撃に隘路上で縦列を解く事が出来ずにいた人参軍は満足な反撃も出来ず全滅。その後、この戦い自体も黄軍が勝利、これをもってこの日は終了となった。
このたった一度の銃撃、これが「12・12事件」の始まりを告げた。
<4>
敗北のショックは前線部隊よりもミタカの方が大きかった様である。特に諸煩総司令の耳に入った事で事態は更に大きくなり、参戦部隊の責任問題提起にまで発展した。
この衝撃を伝え聞いた最前線では「あそこで転ばなければパンサーの先手を十分取る事が出来た」「元々の作戦に無理があったのではないか」「下らないフラグを立てた奴の所為で全体の運気が失われた」「とにかくオマエの顔が気に喰わない」等、責任のなすり合いが随所で始まり、今まで見事な連携を見せていた隊員達が罵り合いをする有様だった。
最終的に、金子領導員が事態の収拾に当たると共に、最前線に身を置いていた紅中兵主席が直接ミタカに働きかけた事で、結果として目立った処罰・粛清等はなかったものの、この1件によりその後出世が遅れた者は(ミタカも含め)多かったと言われている。
(特に諸煩総司令の前では今だ禁句となっている)
この日の勝率・撃破数等を総合的に見た場合、間違いなく大勝利と言って良い戦いであったが、この1件により人参軍内の一部では歴史的大敗の日として認知されている。
「終わりよければー」という言葉があるが、その逆をやってしまった印象である。
後に諸煩総司令は2013年初めの軍内訓示にてこの様なことわざを入れていた。
「勝って兜の緒を締めよ」
油断がために敗れる例は多くあるが、この時の人参軍もまた、その例に漏れなかった。
この記事を読んだ者はいかなる状況でも驕らず、戦いに赴いてもらう事を望みつつ、筆を置くとする。
完